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2008年1月15日 (火)

レポート「坪田譲治について」

坪田譲治の作品には「こどもと文学」の授業で初めて出会った。
「笛」という作品である。それから数日して、
ある日の帰り道に立ち寄った古本屋で彼の全集を
手に入れる事が出来た。今はその全集を、合間を見つけては
少しずつ読んでいるところであるから、
この論文を書くにあたってはまだ私は坪田譲治の初心者で
あるので少し不安である。

しかし初めて知った、
まだ生もののようにほやほやしている手触りを元に書いてみようと思う。


まず彼の年譜を紹介したい。

1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田
(現在の岡山市島田本町)に生まれる。
父の平太郎はランプの芯をつくる製造会社、
島田製織所を経営していた。父は譲治が8歳の時に他界し、
大学生だった兄が家業を継いだ。
以後、会社にまつわる身内間での争いが続き、
後に譲治も経営に参加することもあった。
1908年(明治41年)早稲田大学文科予科に入学。
友人のつてで、童話作家の小川未明と出会う。
1926年(大正15年)短編小説「正太の馬」を発表。
翌年処女短編集「正太の馬」を出版。
この頃は雑誌「赤い鳥」に童話を投稿するも、
収入に結びつかず、苦しい生活を送る。
1935年(昭和10年)山本有三の紹介で「お化けの世界」を
雑誌「改造」に発表し、好評を得る。
翌年から朝日新聞夕刊の新聞小説として連載した
「風の中の子供」が絶賛され、子供から大人という
幅広い年齢層の人気を集め、一躍人気作家となった。
後に「風の中のこども」は映画化までされた)
戦後は日本児童文学者協会の会長などを務めた。

後年は自らも童話雑誌「びわの実学校」を
主宰し、松谷みよ子、あまんきみこ、
寺村輝夫、大石真等を育てた。
また、自宅の一室を児童図書館「びわのみ文庫」として解放した。
後年は児童文学者協会会長などを務めた。
1982年(昭和57年)7月7日、92歳永眠。
1984年(昭和59年)岡山市が「坪田譲治文学賞」を制定。

坪田譲治とは一体どんな人物であったのだろう。
あとがきなどを読むと、自分にきびしい、
ストイックな人であった印象を受ける。
先程紹介した「びわのみ文庫」を開設した自宅の庭に、
縁起の悪いとされるびわの木を植え、
逆に「びわの木に負けてなるものか」と意気込んだそうである。
また雑誌「赤い鳥」の主宰者である鈴木三重吉に
自らの作品の悪い点を指摘された際、
帰り道は涙をこらえる事が出来なかったというが、
この事がまた彼の文学への励ましになったようである。

しかし彼の友人や知人が話す坪田譲治とは
温厚で、愛情深い人物であったようだ。
小川未明は彼の事を「昔から文は人なり、と言われているが
人なりと文学のこんなにも一致するものに、
坪田譲治文学のごときはけだし少なかろうと思う」とまで言っている。
では、彼の作品について迫ってみたい。

「笛」を読んだ時に、私は黒澤明監督作品の
「白痴」の中のセリフを思い出した。

「子供がすごく大事にしていたあめ玉を、
ひょいと転んだ拍子に一個、落としてしまって
なんだか途端に憎らしくなって、
残っていたあめ玉を自分で全部台無しにしてしまう」
というようなセリフだったと思う。

坪田譲治の作品についての評論等を読むと、
彼の特色はやはり「子供の心理描写」だと言われている。
その心理描写とは「悲しい」や「うれしい」
そのような一言で言い表せない、
名前がない故に表現することでしか表せない様な、
このセリフのような心理の描写なのである。
それ故か坪田譲治の作品は、
しばしば「筋書き、物語が弱い」などと
言われる事もあったようだが、そうだろうか。



人の作る物語とは、「伝えたいもの」を伝える道具、
つまり譬え話であると思う。

私たちの住む世界は、そんなに筋書きのある世界だろうか。
例えば、「お化けの世界」の冒頭で、
善太と弟の三平が獅子と大蛇、
どちらの方が強いかということで争っている場面がある。
口で言い負かされた三平は思う。
「どうしても獅子が強いと思うけれど、
他にどうも言い方がない」と。
坪田譲治の作品を読んで伝わってくるものは
登場人物たちのこのような言葉(理屈)にならない胸の内である。
しかし、友だちだったら話さないでも分かる場合も
あるだろうが、読者がこれを理解するのには
筋書きが必要なのである。
言うまでもないが、筋書きだけでもダメで、
表現がものを言うのである。または人それぞれの
言い方、例え方なのである。

このように考えてみても坪田譲治の作品は
筋書きが弱いなどという事は決してなく、
むしろ筋書きと表現のバランスが非常にうまく
取れているように思う。何故なら坪田譲治の
作品は、作者の「これが言いたかったんだ」という
作者自身の意図を感じさせるのではなく、
「ああ、自分にもこんな気持ちがあった」と
読者にとって、自分自身が見える鏡のように
変わるからである。作品が日常の身の回りに
ある物に知らず知らずの内に形を変えて、
知らぬ間に引き込まれているのだ。







それは彼が物語を考える時に、まず最初に情景を
思い浮かべる所から始めるという姿勢に
少なからず起因しているのではないだろうか。

彼の描く世界はかならずといっていいほど
登場人物達はそれぞれの生活に埋もれ、
その生活の中で遊び回る。
例えば「笛」の中で、主人公の善太が家に帰ると
弟の三平が笛を鳴らしながら台所の戸を電車の戸に
見立てて電車ゴッコをやっている場面。
また、「時計退治」の中で家で一人で留守番を
している三平は柱時計を見ているうちに
時計がなんだか気味の悪い顔のように
思えてくる場面。
身の回りの物を使い、遊ぶと言う行為は、
視界に入るものを無意識に構成して遊ぶと言う、
ちょっとした連想ゲームのような、
見間違いをすることで得られる新鮮さに似ている。
またそれはたとえ話ともよく似ているように思えるのである。

坪田譲治は中年を過ぎた頃から
「心遠きところ 花静なる 田園あり」と
色紙などによく書いたそうである。
それについて、彼自身は「これは私の心の中にある、
遠い故郷の風景を描いたものなのです。そこは言葉のとおり、
今から四十年前(譲治が10歳の時のこと)
花が静かに咲いている田園だったのです。
私はそれを大切に、心の奥深くにしまい込み、
ときどきそれを思い出しては、自粛自戒しております。
なぜでしょうか、その静かな田園のどこかに、
母の姿が見えるからです。いや、母という感じが
するからです。母なる大地という言葉がありますが、
それは母なる故郷です。
もとより母は現存していません。それでも私の
心の中に残り、私を自粛させるとは、
蓋(けだ)し母というものは、大きな力といえるものです。」
と語っている。

現実逃避のためだけの刹那的な
非現実ではなく、身の回りにあるものや生活の
ふとした瞬間に見慣れていたはずのものが急に
輝き出すことのほうがずっと胸を打つと私は思う。
それはまさに彼の作品の「魔法」のようである。
そしてそれはどこか坪田譲治が思い描いた田園や、
宮沢賢治のイーハトヴのように
別の世界に続いてる道のようにも思えるのである。


最後に
現在、坪田譲治の作品研究においては
生成論や本文批評の課題はほとんど手つかずの
状態であり、既刊の全集「坪田譲治全集」(新潮社)
「坪田譲治童話全集」(岩崎書店)はいずれも現在絶版であり
掲載された作品においても、多くの作品が初出未詳とされたままであったり、
また再録を何度も重ねている作品例があるのにもかかわらず、
校異作業がまったくなされていないなど、他に作家研究の基礎となるべき
作家や作品に関する体系的な資料の整理が
未だ行われていないなど坪田譲治研究における
課題は膨大にあるそうである。
私自身も、これを書くにあたって
インターネットなどで資料を検索してみたが
ブログなどで読んだ本としてあげられている
ものが非常に少ないことを特に残念に思った。
「いいもの」というものは残るものであり、
多くの人が「いい」とするものだと
どこかで思っていたが、もしかしたら
知らず知らずのうちにこうやって
埋もれていって、知る機会のないものは
たくさんあるのかもしれない、と思わされた。







    

    参考資料

以下全てインターネット/サイト
「坪田譲治を訪ねて」
「坪田譲治研究データベース」
「びわの実学校」
「早稲田と児童文学」

本「坪田譲治全集」(新潮社)

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